寝ても覚めても

六青みつみ

 

「こちらが、今年生まれた仔羊たちでございます。昨年より二割ほど多く生まれ、皆元気で病気ひとつありません」
「うむ。それも予の神子が冤罪の濡れ衣にも負けず、民の安寧を祈り続けたおかげだ」
「はは! 真にもってその通りでございます」
 そう深々と頭を下げてみせた牧羊協会長の顔に、作り物ではない本物の感謝と尊崇の念を認めて、レグリウスは小さくうなずいた。それから生まれたばかりの仔羊たちに視線を戻した。ころころと肥え太った白い毛の塊を見ていると、王宮の奧深く護衛騎士たちに守られた寝室に身を横たえ、自分の帰りを待っている白い髪の少年が思い浮かんで仕方ない。
 無邪気に走りまわったり仔羊同士で遊ぶ姿が、出会ったばかりの頃のイリリアと重なる。人を恨んだり憎んだりしない無垢なところは、今もあの頃と変わらない、けれど弾けるような無邪気さと怖いもの知らずの人懐こさは、影をひそめてしまった。無遠慮にまとわりついて手を引っ張る、鬱陶しくて仕方なかったあの無邪気さが、今は懐かしい。
 秋の初めに追放先の森で死にかけていたところを助け出し、冬の間中ずっと王宮奧深くで療養させること四ヵ月。レグリウスは時間の許す限りイリリアの側にいて、目を覚ましているときはもちろん、意識が朦朧としていても、眠っていても、イリリアが自分にとってどれだけ必要かを言い聞かせてきた。けれどイリリアはどこか遠慮がちで、自分を見つめ返す瞳には澄み切った諦観の色があった。
 どうしたらあの瞳に、以前のような怖いもの知らずの輝きを取り戻せるだろう。
「――…の収益は五万レギオン、羊毛の出荷高は三万五千レギオンとなっております」
 神殿の祈祷句のように長々とした協会長の報告が耳に入り、レグリウスは自分がいつの間にか物思いに耽っていたことに気づく。
 最近、政務の最中に、仕事とはまるで関係のないことを考えてしまうことが増えた。
 先日は運河の護岸工事の視察先で、イリリアと自分が共寝できる寝室をどうするか考えはじめて上の空になり、土木大臣に要らぬ心配をかけてしまった。護岸工事は順調で文句のつけようはなかったが、イリリアが好む解放性と、王たる自分が安心して眠れる警備優先の閉鎖性、ふたつの機能が共存する寝室をどう作ればいいのか考えるうちに、上の空になっていた。
 次に向かった視察先は河沿いに作られた養殖場。生け簀で泳ぐ色とりどりの彩魚を見るうちに、またしてもイリリアの顔が思い浮かんだ。奥宮の庭に小さな池を作り、そこにこの彩魚を放したらイリリアはきっと喜ぶ。
『わぁ…! すごいっ、きれい! 王さま、ありがとう!』
 顔中笑顔にして礼を言い、きらめく水面を覗き込む姿までありありと思い浮かんだ。熱心に彩魚の動きを追うイリリアの横顔を想像して、知らず自分まで笑みを浮かべていたらしい。ゴホンと小さくベルガーに咳払いされて、ようやく我に返った。夢から覚めたような心地で小さく頭を振ると、養殖場の長や飼育長が恐縮しつつも嬉しそうに、期待に満ちた目でこちらを見ていた。自分たちの生け簀の何が、王の御心に適ったのか興味津々だ。
 レグリウスは内心の動揺を微塵も洩らさぬ無表情で長たちを一瞥し、彼らを無駄に緊張させた。しかし口から出たのは彩魚の飼育方法と、寿命や丈夫さについての質問だった。せっかく飼っても簡単に死なれたらイリリアがきっと悲しむ。それだけは避けたい。
 何事にも公平で公正、特別な思い入れを示すことは滅多にない王が見せた積極的な質問の意図に、その場で気づいたのは、おそらくベルガーただひとりだっただろう。
 
 
 一日の政務を終え、奥宮で療養中のイリリアを見舞ったレグリウスは、とりとめのない話を少ししただけで寝入ってしまった少年の顔をしばらく見守った。それから未練を断ち切るように部屋を出る。居間に戻って長椅子に腰を下ろすと、深々と息を吐きながら独り言のようにつぶやいた。
「…寝ても覚めても、政務の最中でさえ、気がつくと頭の中がひとつのことでいっぱいになってしまう、その原因が何か分かるか?」
「イリリア様のことですか」
 誰とも何とも言わないのに、有能な側近兼護衛騎士隊長は正確に質問の意図を見抜いた。
「――…そうだ」
 今さらベルガー相手に取りつくろったところで仕方がない。レグリウスが正直にうなずくと、ベルガーは「ふうむ」と考え込んだ。
「朝、目覚めるとまず、イリリアの体調はどうかと考える。何よりも先に顔が見たくなる。奥宮を出て政務に就いている間も頭の中は常にあれのことでいっぱいだ。仔羊を見ればイリリアの白い髪を思い出し、彩魚を見れば『イリリアが喜びそうだ』と考える。今日など、隣国の特使が献上した宝飾品を見て『イリリアに似合いそうだ、贈ったら喜ぶだろうか』などと馬鹿なことを考えていた。宝飾品になど興味がないことは知っているのに」
「政務の間もその状態ですか」
「そうだ」
「――それは、心配ですね」
 ベルガーは顎を撫でていた指の動きを止め、悩まし気に眉根を寄せた。
「何か、身体のどこかに違和感や不調な部分はございませんか?」
「それはない」
 即答に、ベルガーは幾分ほっとしながら、止めていた指の動きを再開して顎を撫でた。
「私の記憶にある限り、陛下がそのような状態に陥ったことはこれまで一度もありません。私自身もそのような状態になったことはないので、なんとも答えようがないのですが…」
「最近は夢の中にまでイリリアが出てきて困る。――いや、困りはしないが…」
 戸惑うという言葉は、さすがに王の威厳にかけて言い辛かったのか、口の中で小さくつぶやいたレグリウスに、一旦は収まっていた心配の虫が騒ぎはじめたらしい。ベルガーは真面目な顔で進言してきた。
「一度、医師に診てもらった方がいいかもしれません。何か重大な病の先触れだったら大変ですから」
 その夜のうちに秘かな呼び出しを受けた王の侍医は、ひと通り患者の訴えを聞き、有能な側近の補足説明を受けると、なんともいえない微妙で奇妙な表情を浮かべた。
 王も側近も、何か重大な病の兆候でも見つけたのかと身構えたが、侍医は落ちついた態度で「念のため」と前置きして脈を測り、口中の色や瞼の裏を確認していった。そして最後に、相変わらず何かを噛みしめ耐えるような顔つきで、静かに宣言した。
「陛下は確かに病に罹っております」
「なんだと!」
 いきり立ったベルガーに喉首を締め上げられる前に、医師は急いで説明をつけ足した。
「心配はございません。この病は古今東西、誰でも罹り得るもの。病名は『恋煩い』と申します」

 

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