御山洗(おみやまあらい)

六青みつみ

 貴哉が御山を去って二年半が過ぎた。
 独りきりで迎える三度目の初夏。胸にわきあがる憎しみに呼応するように、じわじわと全身に広がりつつある痣の痛みに耐える日々の中で『それ』は起きた。
 春に二歳を迎えたユキは夏になっても相変わらずやんちゃなままだ。そして紫乃がどんなに沈み込んでも、根暗い情念にまみれても、態度を変えることなく無邪気ないたずらをくりかえしたりする。沈みがちな主の気持ちを少しでも引きあげようとするように。
「ユキ、帰るよ」
 崖縁にたたずみ、憎しみをこめて山波を眺めていた紫乃は、風に舞う尾長蝶とたわむれ遊ぶユキにひと声かけて背を向けた。そのまま無造作に二、三歩進んだとき、「きゃんっ…」と背後で悲鳴があがった。
「ユキ…ッ?」
 常とは違う鳴き声にあわてて振り向いた視線の先には、ただひらひらと尾長が舞っていた。
「ユキッ…――!!」
 紫乃は藻をかきわけるように、前のめりで崖縁に向かって走り出した。歩けば十歩の距離なのに、永遠にたどり着けない心地がした。足下の大地が綿を踏むような感触なのは、血の気が引いて全身が痺れているからだ。
 喘ぎながら駆け寄った崖の突端にしがみつき、目を閉じたまま顔を出す。
 震えながらそおっと目蓋を開けて下の様子を確認すると、紫乃は強く目を閉じ祈りを捧げた。
「――ああ、神さま…!」
 感謝します、と。
 ユキは崖下半間の岩間から生え出た松の枝にひっかかり、落下を免れていた。五本の指のように広がる枝の根元近くに受け止められ、横座りの格好で悲しそうに紫乃を見上げている。
「ユキ、良い子だからじっとして。いいか、よく聞くんだ。お前を助けるために、おれは庵に引き返す。縄と大布を持ってくるから」
 ユキはかすかに首を傾げた。
「そこで、じっとして。絶対に動いたらだめだ」
 そう言って立ち上がろうとしたとたん、ユキは悲しそうな鳴き声をあげてわずかに身動いだ。同時に松の枝がミシリと嫌な音をたて、もろい樹皮がぱらりと空を舞う。
「動いたらいけない! 置いて行くんじゃない、必ず戻ってくる。おれを信じて!」
 瞳を見つめて必死に言い募ると、ユキは『くぅ…』と鼻声を出し、耳を垂れて目を閉じた。
 それきりユキが動かないのを確認してから紫乃は走った。力の限り、息の続く限り。
 斜面の段差を飛びこえ、着地の勢いでごろごろと転がりおち、谷川を渡り、登りの斜面を駆けあがった。庵にたどり着いたときには、すでに心の臓が口から飛び出そうなほど苦しかった。
 全身を蝕む呪いの痣は、紫乃から以前の軽やかさや体力を容赦なく奪っている。焦りと不安でよけいに息があがるせいもある。
 紫乃は屋内に飛び込んで、北の岩壁に掛けてある大布をひっつかんだ。
 この大布は紫乃が五樹の邑を出るときに、母親が持たせてくれたものだ。錦が二重になっていて、とても丈夫で強い。紫乃は母の形見の大布をふたつにたたみ、太い麻糸で縫い合わせた。それから大きく広がる口の部分に小さな穴をいくつも開けた。そこに蔓縄を通すと、巨大な巾着ができあがる。
 立ち上がり、壁に掛けてある縄を数本わしづかみ長さと強さを確認してから庵を飛び出した。
 二度目の全力疾走は、一度目よりも足がもつれた。一足ごとに、今にもやんちゃで愛しい白犬が枝から落ちてしまうのではないか、そんな恐怖で息がつまる。
 ――御山の神さま、お願いです。ユキを助けて。おれから奪わないで。他にはもう何もいらない、望まない。だから、お願いだから、これ以上おれから奪わないで……!
 ひりつく喉で願いを唱え続けた。
 貴哉が山を去り、相次いでシロが逝ってしまったあの冬の、骨まで凍みるような寂しさと悲しみがよみがえる。
 ――もうあんな思いはいやだ…!
 再び谷川に駆け下りて、流れから突き出た小岩に飛び移った瞬間、水しぶきで濡れた表面に足が滑った。
「――…あぅッ!」
 川底に落ちた拍子に、右足に鋭い衝撃が走りぬけ、紫乃はそのまま腰砕けに川面に倒れ込んだ。
 流れに負けないよう岩にしがみつき、しばらくその衝撃に耐える。何度か深く息を吸い込んだあと、焼けた砂を詰められたような右足を水からあげると、そこには刃物のように細長く尖った木片が突き刺さっていた。足裏から甲まで見事に貫通している。
 雨期の増水で川上から流れてきた流木だろう。いつもなら川底のどこに何がひそんでいるかくらい把握している。それなのに、
「どうして…!」
 こんな時にと天を呪いかけ、紫乃は首をふった。嘆いている暇はない。
 無心になって木片を引き抜くと、あまりの痛みで気が遠くなり、ユキの鳴き声の幻聴で我に返る。
 そのまま手と膝で、這うようにして谷を登りはじめた。爪の間に土が食いこむ。どんなに焦っても、のろまな水棲動物のような無様な歩みに涙が出る。
 こうしている間にもユキが落ちたら――。あの枝は充分な太さがあっただろうか、ユキは言いつけを守ってじっとしていてくれるだろうか……。焦りと恐怖で息が止まりそうだ。
 二本の足で走る、その十倍の刻をかけて谷の斜面を登りきったとき、紫乃はついに失血と痛みのせいで気を失ってしまった。

 頬を舐められ、頭を小突かれ、耳朶をしゃぶられた。
 松脂の海に沈んだような眠りからぼんやりと目蓋を開けると、目の前にはすらりと長い灰色の脚が四本並んでいた。
「う…ぅ」
 見上げると、脚の先にはほっそりとした躯と細長い首がついている。
「……?」
 それは紫乃の頬に流れる塩気に舌を伸ばし、未練そうにもう一度舐めてからトトト…と軽い足音を残して遠ざかっていった。霞む目で後姿を見送って、ようやく獣の正体を理解する。
「鹿…か」
 舐められた頬を軽くぬぐってからあたりを見回すと、妙に暗い。慌てて顔をあげると、氷水に落ちたときのように頭が痛んだ。こらえて空を見上げれば、陽はすでに大きく傾いている。木々の影は長く伸び、林の向こうの草むらに消えている。紫乃が斜面を登りきったとき、陽はまだ中天に至っていなかった。
「そ、んな……」
 二刻以上、気を失っていたことになる。
 身を起こしかけたとたん、ひどい耳鳴りがした。凍りつくような恐怖に手足が痺れて、自分の身体が下手くそな砂人形になった気がする。ひと突きでもろく崩れ去るような…。
 泥まみれの両手を見つめていると、いくら待っても戻ってこない紫乃に焦れて身動ぎ、崖下に落ちてしまうユキの姿が脳裏を過ぎる。
 虚空で足掻く白い手足。悲しそうな瞳。谷底に吸い込まれてゆく悲鳴。
「い、や…だ」
 ――そんなことは嫌だ。そんなことは認めない。
 紫乃は歯を食いしばって身を起こし、ユキの待つ場所まで再びじりじりと四つ這いで進みはじめた。
 そうして西の空が茜色に染まるころ、ようやく崖縁にたどりついた紫乃は、ささやき声で名を呼びながら祈る気持ちで崖下を覗きこんだ。
「…ユキ?」
「クゥ…――」
 高く細い鳴き声とともに、疑うことを知らない純真な黒い瞳が見上げてきた。
 昼前、紫乃が立ち去ったときと寸分違わぬ姿勢で。
「ユキ……、いい子だ、本当にいい子だ!」
 よくがんばった、もう少しの辛抱だと言い聞かせてから、紫乃は近くの木の根本に二本の縄をくくりつけた。一本は即席の大巾着と繋がっている。残りのもう一本を自分の腰に結わえ付けて崖縁に戻る。それだけで、またたく間に刻が過ぎてゆく。
 大きく口を開けた巾着をユキを支える松枝の下に当ててから、腰に結わえた縄を頼りに自分も崖下におりる。厚く丈夫な布で作った大袋にユキを押し込むことに成功すると、紫乃は深く深く息をついた。それから右足の使えない不自由さをこらえて、崖上にはい上がった。
 己の身軽さを今日ほど感謝したことはない。
 息つく間もなくユキの入った大袋を引き上げて、崖縁から充分遠ざかってからもぞもぞと蠢く袋の口を開けると、ユキは尻を地に着けてへたりこみ、眉毛のあたりを八の字にしてスンスンと鼻を鳴らしはじめた。その白い毛並みを紫乃は思いきり抱き締めた。
「ユキ…」
 紫乃が半日以上も姿を消していた間、この白い獣は言いつけを守って身動ぎもせず、ずっと待っていたのだ。
 ――必ず戻ってくるから。
 その言葉を信じて。
 風が吹けば枝も揺れただろう。いくら待っても帰ってこない紫乃に不安を抱いたはずだ。疑って腹を立てても仕方がないほど長く待たせた。それなのに、助けに戻った紫乃を見上げた瞳には、全幅の信頼と喜びだけが溢れていた。
 疑うことを知らない。――違う。
 信じることしか知らない魂。
 ユキは、待てと言われたから待っていた。その言葉だけを信じて。
「ど…うして、おれも、そんなふうに貴哉を待てないんだろう…」
 ユキの白い首筋に埋めた頬に、新しい涙が零れ落ちる。
 貴哉も何か理由があって、どうしても紫乃を迎えに来られないのかもしれない。
 足を木片に貫かれた紫乃が、どんなに努力しても容易にはユキの元に辿り着けなかったように。
 出口を塞がれた沼底に淀む腐った泥土のように、紫乃の心を蝕んでいた恨みの気持ちが少しだけ薄らいだ。
 紫乃が貴哉を信じることと、貴哉が約束を守ることは、一見同じことのようでいて実は別のことなのだ。
 貴哉がたとえどんな理由で約束を違えてしまったとしても、自分だけは信じて待ち続けたかった。
「……ユキ、おれもおまえみたいに、ずっと信じて待っていたかった」
 本当はずっと待っていたかった。信じていたかった――。
 けれどもう、無事な肌は左の頬しか残っていない。
 痣に侵されきった己の身体を見下ろして、紫乃は泣きながら微笑んだ。
 微笑みに伝う涙を、ユキの温かい舌がいつまでも舐め続ける。
 初夏の夜空に、山吹色の月がやさしく輝きはじめていた。

 

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