翼神の滋味(エナジア)

六青みつみ

 最近、クラウスはとても忙しい。
正確には天(そら)の浮島から一緒に帰還してから、ずっと忙しい。
ルルに残されたわずかな癒しの力では追いつかないほど、毎日朝から晩まで、会議に密談、視察や謁見、陳情に耳を傾けたり複雑怪奇な揉め事に裁定を下したりして疲れている。
「剣をふりまわして敵をぶった切ってる方が楽だと思うこともある――」
溜息まじりに苦笑するクラウスの背後で、側近のイアル・シャルキンがわずかに目を細めて小さく首を横にふる。王自らが剣をふりまわして危難を排するような状態になるのを防ぐのがイアルや、今は部屋の隅に控えている護衛騎士たちの役目だからだ。
「クラウスはやさしいから」
謁見の予定がひとつ延期になったおかげで生まれたわずかな休憩時間。南翼棟の私室にもどってきたクラウスの、目の下の隈を指先でそっと撫でながらルルはつぶやいた。
「相手の立場を考えて、気をまわしすぎちゃうから余計疲れるんだよね」
クラウスは意外なことを言われたように一瞬目を見張ったあと、ふっと目元を和ませて、甘えるようにルルの指先に顔を押しつけた。
ルルはクラウスの目元と頰をやさしく撫でながら、そっと肩に腕をまわして自分の方へ抱き寄せた。
「膝枕してあげる」
クラウスは素直に身体を傾けて、ルルの腿の上に頭を乗せ、そのまま深く息を吐いて目を閉じた。ルルの両脚にかかる重みがずしりと増す。クラウスが力を抜いて、自分に我が身を委ねた証拠だ。じっとしていれば脚が痺れてしまうのはわかっているけれど、今はその重みが嬉しい。
落ちついた呼吸が規則正しい寝息に変わるまで、ルルはクラウスの額に唇接けたり、朝陽のような金色の髪を指先でやさしく撫でつけつづけた。

「疲労回復に効く飲み物を作ろうと思う」
短い休憩時間を終え、政務にもどっていったクラウスを見送ったあと、ルルは『王妃(ステラ)の薬草園』に赴いて宣言した。
「疲労回復に効く薬湯でしたら、幾種類かありますけど…?」
元クラウスの乳母で、今はルルの侍女兼相談役兼助手でもあるターラが『今さらどうしたんです』と言いたげに小首を傾げる。
「薬湯もいいんだけど、あれって効き目があるのは苦かったり飲みづらかったりするでしょ。僕は今までにない画期的かつ美味しくて効能が高い飲み物を創りたいんだ」
「画期的かつ美味しい――…ねぇ」
ターラは悩ましげに天を仰いだあと、ルルに視線をもどして嘆息した。
「そういうことでしたら、わたくしよりナディン殿の方が良い案を思いつくのでは?」

「と、いうことで相談なんだけど」
「はい?」
突然の王侶来訪に、鳥の巣のようにもしゃもしゃした髪を手櫛で撫でつけながら応対に現れたナディン・ナトゥーフは、あちこちに書物や得体の知れない絡繰り仕掛け、羊皮紙、石板、箱が散乱している研究室を背に、首を傾げた。
「アルシェラタンによくある滋養強壮薬の元、棘酢果(こくさくか)を品種改良して欲しいんだ」
「はいぃ?」
棘酢果はアルシェラタン特産の黄色くて小さな丸い果実だ。大きさは親指の先くらい。果実といっても味は名が示す通り、棘で刺されたと思うほど酸っぱくて苦味が強い。ただし絞り汁や皮を煮出した薬湯は身体に良い効能が様々にある。疲労回復、胃健、落ち込んだ気分を高揚させる、皮膚疾患に効く等々。
「でも、とにかく味が」
不味い。知らずに口にすれば毒薬かと思うほど不味い。
「ええまあ。良薬口に苦しと申しますし」
ナディンはほんの少し懐かしそうに視線を遠くに向けてから、なだめ口調で当たり障りのない返答をする。帰還してすぐの頃なら『面白そうですね』と、すぐ話に乗ってきたはずだ。けれど今は他に任されている案件が多すぎて、迂闊に新しい研究や開発に飛びつけないのだろう。でも――。
「僕は、口に甘い良薬を創りたいんだ…!」
ルルは指先でつまんだ棘酢果をナディンの眼前に差しだして、にっこり微笑だ。
「――…わかりました」
頰にぐいぐい食い込むくらい棘酢果を押しつけられたナディンは、ルルの熱意に押し切られる形で品種改良に協力してくれた。

品種改良は、主に天の浮島から持ち帰った記録や技術を元にして行われた。
今回はそこに、ルルの持つ癒しの力を加え、さらに天の浮島で神力を使い、様々な実験と試みがなされた。
結果。わずか一年ほどで棘酢果が持つ効能をほぼ損なわず、味と形だけ改良することに成功したのだった。
「めちゃくちゃ酸っぱいけど、かすかに甘味もあって香りが良い。それに大きくなって果汁がたっぷり採れるしとにかく香りが良い」
大成功だねと喜ぶルルにうなずきながら、ナディンが訊ねる。
「名前はどういたしましょう?」
寝不足でヨロヨロしているナディンに、なけなしの癒しの力を与えて元気にしてやりながら、ルルは「う~ん」と考えこんだ。
「この香りって檸檬草(リモネラス)に似てるよね。そこからもらって檸檬(リモーネ)っていうのはどう?」
「檸檬…ですか。いいですね」
檸檬は熟すと翠から黄色になる。形は楕円系で、元種の棘酢果より十倍近く大きい。
「さっそくこれを使って薬湯…ううん、飲物(ジュース)を作ってみよう!」
季節は初夏。熱かったり温(ぬる)かったりするより、どうせならキリッと冷たい方がいい。
檸檬を絞った果汁に蜂蜜と花糖をたっぷり加え、氷室で冷やした炭酸水で割る。見た目も楽しめるよう杯(グラス)は金や銀ではなく、翼を模した繊細な意匠の玻璃製で涼やかさを演出。最後に薄荷草(ミント)の小さな葉を添えて…。
「これで、どうだ!」
「――…見た目はともかく、味は大変美味しゅうございます」
「僕は美味しくいただけますが、陛下にはもう少し甘味を抑えた方が喜ばれるのでは? 見た目はまあ、陛下は気にされないと思いますが…ごにょごにょ」
ターラとナディンに試食してもらった意見を参考に、見た目をよくするため絞りっぱなしだった果汁を布で漉し、種や皮の切れ端を取り除いて透明感を増した。
さらに蜂蜜と花糖の分量、炭酸水の割合などをいくつか試行錯誤してから、クラウスが好みそうな配合を見つけて完成させた。

「――…どう?」
相変わらず、会議や密談、謁見や視察に忙殺されている政務の合間にをねらって訪れた執務室で、透明な玻璃の杯(グラス)を傾けたクラウスに、ルルは期待と不安でドキドキしながら訊ねてみた。
「美味い。甘いのに後味はすっきりしていて、なによりも香りが良い。君の好きな檸檬草(リモネラス)によく似ているが、それよりずっと爽やかだ」
「でしょう!」
期待以上の反応がもらえて、ルルはぴょこんと飛び上がって喜んだ。檸檬を搾るとき、手がすべって果汁が飛び散り「目が…目がぁ…!」っとなったのは内緒だ。
「ああ。それに気分がすっきりして、疲れが取れる…気がする」
「気のせいじゃないよ。ちゃんと疲労回復の効能がある果実を使ってるから」
「ほお?」
ルルは手短に、棘酢果を品種改良して新しい果実『檸檬』を作り出した経緯を説明した。
「ふむ」
クラウスは飲み干して空になった杯を眺めながらなにやら思案したあと、ナディンと農務長官を執務室に呼び寄せた。
「王侶が発案した檸檬を大々的に栽培させよ。成功したら我が国の特産品として良い交易品になる」
ナディンと農務長官は顔を見合わせたあと、深々と頭を下げて王命を拝領して出ていった。さっそく栽培方法を相談しながら。
外国に高く売れれば我が国の民が潤う。買った外国の民も薬効により心身が整う。
「良いと思ったものを独り占めせず、多くの人々に与えようとするクラウスが、僕はとっても好きだよ」
頰に手を添え、唇にちゅっと軽く唇を重ねてからそう言って微笑むと、クラウスもお返しに唇を重ね返して大きく微笑んだ。
「俺のために、民も喜ぶものを創りだしてくれる君を、俺は心から愛している」
クラウスはそう言って空の杯を掲げ、お代わりを申しでた。
ルルはクラウスの要求に応えるため、あらかじめ用意していた材料一式を室内に持ちこんで、目の前で新しい飲物をもう一杯作ってみせた。
不器用なルルが檸檬を搾った瞬間、飛び散った果汁が作業を覗きこんでいたクラウスとイアルの顔面を襲い「目が…!」となったのは、その場にいた者たちだけの内緒話だ。

 

2022年11月18日UP 禁無断転載